(U・ω・)床張り
前回に引き続きそんちょうルームの床張りをするOTK氏。本格的になってきました(U・ω・)
隙間に埋めた発泡スチロールみたいなのが断熱材。ボロ家ゆえ、周りの隙間と整合性を取りながら板をはめ込んでくそうなのです。
上の画像は細長い床板をノミを差し込んでる右側の隙間と左手前の柱の二箇所合わせてはめ込みたくてノミでそれぞれ削ってるらしいです。
最近の住宅はノミとかカンナとか全然使わないそうな。あらかじめ切ってある材料を組立て、デカいホッチキスみたいなのでガチャンと止めたりして住宅が完成ってのが増えてるらしいんですけど、それは道具使えない作業者の人でもできる反面、逆にいえば大工道具を使った仕事がロストテクノロジーになりつつあるんだそうな…。
なので最近の大工さんノミとか使えない人増えてるらしいっすよ。仕事が扱いやすい分失われてくものも多いってやつですな。もちろん悪い事ばっかじゃないみたいですけどね。見積り出しやすいとか木材の収縮を見越すみたいなトラブルや面倒が無いとか。DIYブームでみんながめいめい好きな改装をしやすくなったしネ。
(U3ω3)その辺の話は長くなるので機会があればまたそのうち。
作業を勝手に短く動画にまとめたです。好き勝手撮ったのでもしかしたら撮って欲しくない所もあったかもしれんですが。撮ってアップするのは別にいいっていってたからいいよね…。いいよね…。
(U・ω・)流れで言うと、板のデコボコカットに合わせて柱や隙間をノミで削って合わせて板をはめ込み、所々釘で固定て感じですな。
設計&デザインが建築士さんのお仕事なら、指示通りに組み立てるだけじゃなく設計図と現場での矛盾を現場で整合性を取りながら収めるのが本業(モヤっとした書き方をする私)の仕事なんだって。なにそれカッコいい事言うじゃんなのです!!!!(U,,(8)ω(8))
何はともあれ。
結構色々細かいんだねぇ。とのん気に言ってたら「今回はやってみたかったってのもあるけど、そんちょうさんが寒くないように普段より分厚い板を敷いてみました」と言っておりました。
フツーはベニヤ板敷いた上にもっと薄い板を敷いてくらしいのだけど、柔らかい木材の厚い板を表面加工?塗装?しないで使うので、断熱効果があるだろうってのと使ってくうちに柔らかい部分は減って木目の硬い所が残るので味のある床になるってのでやってくれたそうな。
板は敷かれたですが、あとは隙間を埋めたりとかまだあるそうです。前に住んでたジジババさんが木枠の窓に無理やり窓枠はめ込んでたりするそうなので、どうしよっかなーと思案中のようです。好きにいじれるってことで色々考えてるみたい。
(U,,3ω3)なんかよく分からんけどありがてえ。さすが プロや!!お代は500mlコーラとチョコパイで誤魔化しました。夫婦ならなんでもアリや!!
「まあ趣味みたいなもんだから」とチョコパイ食ってました。
こけしが見守っておるですゾ!
床撤去(U・ω・)
本日お休みだったOTKせんせいが床剥がしてました。
剥がした後に土台?板?を設置しておりました。さすが、色々出来るんですな…
その後用事で出かけて行ったです。床張り替える言ってたので、前の部屋みたいに畳外して板並べるだけかと思ってたんですけど、想像以上に大作業だったのですね…。ありがたやありがたや…。
ここは村長ルームにしてくれるとかくれないとかくれるとか。私はボロいままでなんか布でも敷いときゃいいぐらいに思ってたのでありがたや…。
別の部屋でナゾのマシンで板ぶった切ってました。色々あるんですな…(それしか言えない素人発言。。。)
心を落ち着けるために猫のり巻きでもみてくだされズラ!
善意
善意でくれる助言のほとんどは善意に見せかけた要求だったりする。
「ああしたら得だ。将来困るからこうしときなさい」と言いつつも、殆どは自分が見ていて不安だから後で感謝されると気持ちがいいからそういった提案をするけれど結局は相手のことがどうこうより、自分が気持ちよくなりたいだけだったりする。本当に善意の助言であれば強要はしない。「私ならこうする」「手伝えるならば手を貸す」で留まる思う。
悩んでいる人間が難しい場合、面倒な人物の場合は傍観するしかないかもしれない。手を差し伸べてもどうにも出来なかったり、問題を複雑にするぐらいならその方がいいしそうせざるを得ない。それは正しい。一方で、そのケースだと実質助けになっていたとしても助けとしては認識されないし、それが「見て見ぬフリ」にカウントされても仕方ない。けれど害はない。
善意に見せかけて自分の欲求を満たしたいタイプは、いいことをしたように見せつつ相手を自分の思い通りに動くよう取り込む。「あなたの好きにしていい」と言いつつも相手を自分のマリオネット化する。親切が2割で私欲が8割だったりする。でも最も厄介なのは、それが本当にいいことだと思い込んでやっているタイプの人間だ。実は相手を自分の思い通りに、自分がスッキリするために振り回しているだけだと気づかず、「相手の為だ」と思って相手を操る。押しに弱い人、断れない立場の人はそれに振り回される。苦しくても断ることができない。
この手の押しの強い人は相手の気持ちを読むことはできない。さらに言えば自分がそういう同じような環境の中で育っている可能性も高く、人の気持ちを推し量るという文化がない。だから努力しても人の気持ちを正しく読むことは難しい。本当の善意が何なのか分からないから。結局は「こうあるべき論」から、自分が見つけた正しさから抜け出すことができない。ある意味で可哀想な人だと思う。人から何となく嫌われた時の理由が永遠に自分で分からないし、仕方なく相手が変な人だったと自分で納得するしかないが、その時のもやもやは一生消えないだろう。そしてそれを訳も分からないまま繰り返していく。本人はいいことをしているつもりでも、すればするほど人は離れていく。
けれどその善意に見せかけた要求に取り込まれた人間はたまったものではない。自分から自分が徐々に失われていく。生きながらゆっくりと死んでいくしかない。それでもどうしてもそこから逃げられない立場の場合は、どうやったら助かるのだろう?自分ではなくなった抜け殻の自分で生きていくのは、死んでいることとどう違うのだろう?