ぷっぷコラム

ねふ日記帳

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善意

善意でくれる助言のほとんどは善意に見せかけた要求だったりする。

 

「ああしたら得だ。将来困るからこうしときなさい」と言いつつも、殆どは自分が見ていて不安だから後で感謝されると気持ちがいいからそういった提案をするけれど結局は相手のことがどうこうより、自分が気持ちよくなりたいだけだったりする。本当に善意の助言であれば強要はしない。「私ならこうする」「手伝えるならば手を貸す」で留まる思う。

 

悩んでいる人間が難しい場合、面倒な人物の場合は傍観するしかないかもしれない。手を差し伸べてもどうにも出来なかったり、問題を複雑にするぐらいならその方がいいしそうせざるを得ない。それは正しい。一方で、そのケースだと実質助けになっていたとしても助けとしては認識されないし、それが「見て見ぬフリ」にカウントされても仕方ない。けれど害はない。

 

善意に見せかけて自分の欲求を満たしたいタイプは、いいことをしたように見せつつ相手を自分の思い通りに動くよう取り込む。「あなたの好きにしていい」と言いつつも相手を自分のマリオネット化する。親切が2割で私欲が8割だったりする。でも最も厄介なのは、それが本当にいいことだと思い込んでやっているタイプの人間だ。実は相手を自分の思い通りに、自分がスッキリするために振り回しているだけだと気づかず、「相手の為だ」と思って相手を操る。押しに弱い人、断れない立場の人はそれに振り回される。苦しくても断ることができない。

 

この手の押しの強い人は相手の気持ちを読むことはできない。さらに言えば自分がそういう同じような環境の中で育っている可能性も高く、人の気持ちを推し量るという文化がない。だから努力しても人の気持ちを正しく読むことは難しい。本当の善意が何なのか分からないから。結局は「こうあるべき論」から、自分が見つけた正しさから抜け出すことができない。ある意味で可哀想な人だと思う。人から何となく嫌われた時の理由が永遠に自分で分からないし、仕方なく相手が変な人だったと自分で納得するしかないが、その時のもやもやは一生消えないだろう。そしてそれを訳も分からないまま繰り返していく。本人はいいことをしているつもりでも、すればするほど人は離れていく。

 

けれどその善意に見せかけた要求に取り込まれた人間はたまったものではない。自分から自分が徐々に失われていく。生きながらゆっくりと死んでいくしかない。それでもどうしてもそこから逃げられない立場の場合は、どうやったら助かるのだろう?自分ではなくなった抜け殻の自分で生きていくのは、死んでいることとどう違うのだろう?

 

 

 

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